2018年春 三都旅【中学修学旅行以来の東大寺・大仏殿】 [旅行]
ついこの間桜が咲いたと思っていたら、九州南部地方は早くも昨日から梅雨入りとか。
関東地方も早ければ今週の木曜日辺りから梅雨入りと聞いて、時間の流れの速さをしみじみ噛み締めております。
…そろそろ仕事も2018年上期の締めで忙しくなるぅーーーーー(;´Д`)
ここ最近のお出掛けネタがようやく追いついたので、三都旅2日目(4/13)の奈良旅行記事に戻ります(;´∀`)
興福寺を出て近鉄奈良駅付近でお昼を食べ、駅前からバスで東大寺まで向かうつもりだったのですが、最寄りのバス停は土日しかバスが来ない模様。
はて、巡回バスが出ていた筈なんだけど、乗り場何処ら辺だったかなぁ…。まぁ、なかなかバスも来ないし、次のバス停までぼつぼつ歩いていこうかな。
…と、歩いていたらバスに追い抜かれもしないまま興福寺前を過ぎ、県庁前を過ぎ、奈良国立博物館前まで着いてしまいました(;´Д`)
奈良博は金曜夜は20時まで開館しているので、東大寺を拝観した後に仏像館だけ見るつもりだったのですが先に見てしまうのも良いかな、と思ったら
な、何か遠目から見てもめちゃくちゃ並んでる…
特別展「春日大社のすべて」は明日からなのに、何あの行列は
どうも一般への公開に先立って招待客向けの内覧会だったようです。
「一般の方は入場出来ません。ご了承ください」と書かれてあったので、諦めて東大寺方向へ向かいます。
ま、もともと明日に「春日大社のすべて」展を見に来るつもりだったしね。仏像館も明日で良いか( ゚Д゚)
続きは ↓ から。
奈良博まで来てしまうと東大寺はもうすぐそこ。時刻は既に14時過ぎです。結局歩いちゃったなぁ
東大寺の南大門
この辺りはあちこちにお土産屋や飲食店、鹿煎餅屋などが散見しており賑やかです。
ところでこの南大門、よく見ると「東大寺」ではなく「大華厳寺」と書かれています。
大華厳寺というのは東大寺の異称で、古い文献に「大華厳寺」と書かれた扁額が掛けられていた、という記録に基づき、2006年10月に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に併せて新調された扁額なんだとか。
遠目からはそれほど大きく見えなかった南大門ですが
近づいて行くと、うわ、記憶の中にあった南大門よりもずっと大きいし、やたらと年期が入っているよ
こんなに古い門だったかなぁ…?
年期が入っているのは道理で、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたものだそうです。
そして門の左右には運慶、快慶率いる慶派仏師による阿吽の金剛力士像
うわーー、中学3年の修学旅行以来のご対面ヽ(・∀・)ノ
どちらも高さ8m超えなので迫力がありますが、像の前の網がちょっと無粋だなぁ
昔はこんな網はなかったんですけれどね。
南大門の天井部分も相当見応えがあります。
上を見ると何処までも高い…。吸い込まれてクラクラしそうです。
鎌倉時代の宮大工の技、ハンパないな
南大門を過ぎてすぐ左側に東大寺ミュージアムがあったので、先に見る事にしました。
館内は撮影禁止だったので写真とか無し。
屋外パネルの写真にあった千手観音や日光&月光菩薩像も素晴らしかったのですが、個人的には掌に乗るくらいの小さな蓋付容器「水晶合子(ごうす)」が見事で見惚れてしまいました。
音声ガイドを借りて廻ったのですが、すぐ近く同士にある展示品の説明が延々と続くので、説明が終わるまで必要以上に展示品の付近に長居する事になってしまいました(;´Д`)
空いていたからまだ良かったものの…
館外には実物大の大仏の左手模型が展示されています。
片手だけで大人が4~5人立てそうな大きさです。
余談ですが、東大寺ミュージアムはちょうど行った日の3日後(4/16)から今年の9月まで長期休館に入っているそうです。
1週遅く旅行の予定を組んでいたら見る事が出来ないところでした(;´∀`) 危ない、危ない。
東大寺ミュージアムを出てようやく大仏殿前の中門へ。
…あれ?昔はこの中門から大仏殿へ入れたと思ったのですが
どうやら、今は中門の左手側に入口が移っているようです。
既に時間も15時過ぎていたので中門をしみじみ見る事も無くさっさと大仏殿の方へ向かってしまったのですが、この中門にも持国天と毘沙門天像があったそうなのでもっとじっくり見ておけばよかったです…(;´Д`)
拝観料を払って回廊を進むと…
大仏殿!でっかい!!Σ(・ω・/)/
写真だとちょっと大きさが伝わりにくいのですが、とにかく大きいのです。流石は世界最大の木造軸組建築物。
それにしてもこんなに大きな建物だったっけ…
周囲の海外旅行客も口々に「Huge!!」と感嘆の声をあげています。
よく「子供の頃に見たものがとても大きく感じたけれど、大人になってから見たら自分も大きくなったのでそれほど大きく見えなかった」というのはあるかと思うのですが、大仏殿に関しては全く真逆でした。
大仏殿前にある金銅八角燈籠もとにかく大きい…。
この燈籠は国内に存在する金属製の燈籠としては最古で最大の燈籠で、大仏開眼と同じ年752(天平勝宝4)年頃の鋳造と推測されています。
何度か修復を繰り返してはいますが、度重なる兵火や落雷の被害を免れて現在も大仏殿前に建っているものです。
火袋の部分には音声菩薩(おんじょうぼさつ)と呼ばれる楽器を演奏する菩薩像が4面。
上の火袋の音声菩薩は西南面のもので横笛を吹いています。
西南面と西北面の火袋は建造当時のオリジナルだそうですが、近年補修されたらしくあまり古さを感じさせません。
今では剥落していますが部分的に金箔が残っており、燈籠建設当時は金箔で覆われていたのではないかと推測されているそうです。
因みに東大寺ミュージアムには一部破損している東北面側の銅鈸子(どうばっし)を奏でる音声菩薩の火袋が展示されていました。
古い物なので風化して破損したのかと思ったら、何でも1962年に盗難に遭ってしまいその際に一部削り取られてしまったのだそうです。
東北面の火袋は現在では精巧に復元されたレプリカが嵌まっています。
大仏殿の中へ。
正確には大仏ではなく盧遮那仏(るしゃなぶつ)ですね。
真正面から写真撮ってきたかったのですが、とにかく人が多くて(主に隣大国からの観光客)横からしか撮影出来ません(;´Д`)
大仏殿内は一方通行になっていて、時計回りにぐるりと廻る様になっています。
盧遮那仏の右横(向かって左側)には脇侍のきんきらの虚空蔵菩薩像
宝暦2年(1752年)造立なので、江戸時代になってからの比較的新しい仏像になります。
虚空蔵菩薩像の横には大仏殿の天井裏へ続く急峻な階段が…∑(゚Д゚|||)ヒイィィィ!!
ブラタモリで高所恐怖症のタモさんが登らされそうになって頑なに拒絶していた階段ですね(;´∀`)
でもこれは高所恐怖症ではなくても拒否したくなる…
現在の大仏殿は江戸時代の宝永六年(1709年)に再建されたものですが、なんせ巨大な建築物。
使われている瓦の数は約11万枚。屋根の総重量3020トン。瓦だけでも1500トン。
よくもまぁ木材だけで支えているもんだと思っていたら、やはりというか案の定というか、明治時代には梁が重さで歪んでしまい波打つまでになってしまったんだそうです。
明治5年(1872年)頃の大仏殿
見事に屋根歪んでいますね(;´Д`)
そしてよく見たら上層&下層の屋根部分にはつっかい棒が…
明治36年(1903年)から11年にわたり大修理が行われました。
イギリスのSHELTONSTEEL(シェルトン・スチール)社製の鉄骨トラスを輸入し、天井裏に鉄骨トラスを組んで補強したのだそうです。
屋根裏に登ると明治時代に修復された鉄骨トラスが今でも梁を支えているのを見る事が出来るそうなのですが、もちろん通常は屋根裏は非公開。
それにしてもよくもまぁ30年以上も歪んだ梁状態で持ったものだと思います。
広目天像
寛政11年(1799年)の造立。
反対側には多聞天像
持国天と増長天像は何故か頭部だけの造立で終わっているそうです。
多聞天像の前の柱には、盧遮那仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が空いていて、無事くぐり抜けられると「無病息災」ご利益が有る、という柱くぐりがあり、修学旅行生などで賑わっています。
斯く言う私も中学修学旅行の時はくぐったものでしたが、行った時には相当良い歳した某隣大国からの観光客軍団が修学旅行の子供達をそっちのけで盛り上がっている状態でした(;´Д`)
建設当時(奈良天平時代)の大仏殿の模型
創建当初の大仏殿は奥行きは現在の大仏殿とほぼ同じでしたが、横幅は約1.5倍の幅があったと言われています。
鎌倉時代には奈良時代とほぼ同じ大きさで再建されましたが、再度の兵火で大仏殿が焼失した後、ようやく再建が決まった時には奈良時代に柱として使われていたほどの大きさの木材は調達出来なかったため、心棒として建てられた柱の廻りに更に木材を鉄輪でまとめて強化して柱にしたそうです。
木材不足から建設当初の大仏殿の大きさでは到底再建できず、横幅を縮めて建設したんだそうで。
(尤も創建当初の大仏殿も重さですぐに歪みが出てしまい、兵火で焼け落ちるまでは軒を支える柱を40本ほど足していたそうですが)
この模型自体も大正年間に作られたもので、それなりに古いものでした。
盧遮那仏の光背部分
横から1枚
よくよく見ると胴体部分にはあちこち修復した跡が見られます。頭部は江戸時代の再建なので胴体部分と比べると新しい感じ。
盧遮那仏の左横(向かって右側)の如意輪観音菩薩坐像
虚空蔵菩薩像よりも少し古い元文3年(1738年)頃の造立だそうです。
大仏殿を出てからお水取りで有名な二月堂へ行ってみる事にしました。
関東地方も早ければ今週の木曜日辺りから梅雨入りと聞いて、時間の流れの速さをしみじみ噛み締めております。
…そろそろ仕事も2018年上期の締めで忙しくなるぅーーーーー(;´Д`)
ここ最近のお出掛けネタがようやく追いついたので、三都旅2日目(4/13)の奈良旅行記事に戻ります(;´∀`)
興福寺を出て近鉄奈良駅付近でお昼を食べ、駅前からバスで東大寺まで向かうつもりだったのですが、最寄りのバス停は土日しかバスが来ない模様。
はて、巡回バスが出ていた筈なんだけど、乗り場何処ら辺だったかなぁ…。まぁ、なかなかバスも来ないし、次のバス停までぼつぼつ歩いていこうかな。
…と、歩いていたらバスに追い抜かれもしないまま興福寺前を過ぎ、県庁前を過ぎ、奈良国立博物館前まで着いてしまいました(;´Д`)
奈良博は金曜夜は20時まで開館しているので、東大寺を拝観した後に仏像館だけ見るつもりだったのですが先に見てしまうのも良いかな、と思ったら
な、何か遠目から見てもめちゃくちゃ並んでる…
特別展「春日大社のすべて」は明日からなのに、何あの行列は
どうも一般への公開に先立って招待客向けの内覧会だったようです。
「一般の方は入場出来ません。ご了承ください」と書かれてあったので、諦めて東大寺方向へ向かいます。
ま、もともと明日に「春日大社のすべて」展を見に来るつもりだったしね。仏像館も明日で良いか( ゚Д゚)
続きは ↓ から。
奈良博まで来てしまうと東大寺はもうすぐそこ。時刻は既に14時過ぎです。結局歩いちゃったなぁ
東大寺の南大門
この辺りはあちこちにお土産屋や飲食店、鹿煎餅屋などが散見しており賑やかです。
ところでこの南大門、よく見ると「東大寺」ではなく「大華厳寺」と書かれています。
大華厳寺というのは東大寺の異称で、古い文献に「大華厳寺」と書かれた扁額が掛けられていた、という記録に基づき、2006年10月に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に併せて新調された扁額なんだとか。
遠目からはそれほど大きく見えなかった南大門ですが
近づいて行くと、うわ、記憶の中にあった南大門よりもずっと大きいし、やたらと年期が入っているよ
こんなに古い門だったかなぁ…?
年期が入っているのは道理で、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたものだそうです。
そして門の左右には運慶、快慶率いる慶派仏師による阿吽の金剛力士像
うわーー、中学3年の修学旅行以来のご対面ヽ(・∀・)ノ
どちらも高さ8m超えなので迫力がありますが、像の前の網がちょっと無粋だなぁ
昔はこんな網はなかったんですけれどね。
南大門の天井部分も相当見応えがあります。
上を見ると何処までも高い…。吸い込まれてクラクラしそうです。
鎌倉時代の宮大工の技、ハンパないな
南大門を過ぎてすぐ左側に東大寺ミュージアムがあったので、先に見る事にしました。
館内は撮影禁止だったので写真とか無し。
屋外パネルの写真にあった千手観音や日光&月光菩薩像も素晴らしかったのですが、個人的には掌に乗るくらいの小さな蓋付容器「水晶合子(ごうす)」が見事で見惚れてしまいました。
音声ガイドを借りて廻ったのですが、すぐ近く同士にある展示品の説明が延々と続くので、説明が終わるまで必要以上に展示品の付近に長居する事になってしまいました(;´Д`)
空いていたからまだ良かったものの…
館外には実物大の大仏の左手模型が展示されています。
片手だけで大人が4~5人立てそうな大きさです。
余談ですが、東大寺ミュージアムはちょうど行った日の3日後(4/16)から今年の9月まで長期休館に入っているそうです。
1週遅く旅行の予定を組んでいたら見る事が出来ないところでした(;´∀`) 危ない、危ない。
東大寺ミュージアムを出てようやく大仏殿前の中門へ。
…あれ?昔はこの中門から大仏殿へ入れたと思ったのですが
どうやら、今は中門の左手側に入口が移っているようです。
既に時間も15時過ぎていたので中門をしみじみ見る事も無くさっさと大仏殿の方へ向かってしまったのですが、この中門にも持国天と毘沙門天像があったそうなのでもっとじっくり見ておけばよかったです…(;´Д`)
拝観料を払って回廊を進むと…
大仏殿!でっかい!!Σ(・ω・/)/
写真だとちょっと大きさが伝わりにくいのですが、とにかく大きいのです。流石は世界最大の木造軸組建築物。
それにしてもこんなに大きな建物だったっけ…
周囲の海外旅行客も口々に「Huge!!」と感嘆の声をあげています。
よく「子供の頃に見たものがとても大きく感じたけれど、大人になってから見たら自分も大きくなったのでそれほど大きく見えなかった」というのはあるかと思うのですが、大仏殿に関しては全く真逆でした。
大仏殿前にある金銅八角燈籠もとにかく大きい…。
この燈籠は国内に存在する金属製の燈籠としては最古で最大の燈籠で、大仏開眼と同じ年752(天平勝宝4)年頃の鋳造と推測されています。
何度か修復を繰り返してはいますが、度重なる兵火や落雷の被害を免れて現在も大仏殿前に建っているものです。
火袋の部分には音声菩薩(おんじょうぼさつ)と呼ばれる楽器を演奏する菩薩像が4面。
上の火袋の音声菩薩は西南面のもので横笛を吹いています。
西南面と西北面の火袋は建造当時のオリジナルだそうですが、近年補修されたらしくあまり古さを感じさせません。
今では剥落していますが部分的に金箔が残っており、燈籠建設当時は金箔で覆われていたのではないかと推測されているそうです。
因みに東大寺ミュージアムには一部破損している東北面側の銅鈸子(どうばっし)を奏でる音声菩薩の火袋が展示されていました。
古い物なので風化して破損したのかと思ったら、何でも1962年に盗難に遭ってしまいその際に一部削り取られてしまったのだそうです。
東北面の火袋は現在では精巧に復元されたレプリカが嵌まっています。
大仏殿の中へ。
正確には大仏ではなく盧遮那仏(るしゃなぶつ)ですね。
真正面から写真撮ってきたかったのですが、とにかく人が多くて(主に隣大国からの観光客)横からしか撮影出来ません(;´Д`)
大仏殿内は一方通行になっていて、時計回りにぐるりと廻る様になっています。
盧遮那仏の右横(向かって左側)には脇侍のきんきらの虚空蔵菩薩像
宝暦2年(1752年)造立なので、江戸時代になってからの比較的新しい仏像になります。
虚空蔵菩薩像の横には大仏殿の天井裏へ続く急峻な階段が…∑(゚Д゚|||)ヒイィィィ!!
ブラタモリで高所恐怖症のタモさんが登らされそうになって頑なに拒絶していた階段ですね(;´∀`)
でもこれは高所恐怖症ではなくても拒否したくなる…
現在の大仏殿は江戸時代の宝永六年(1709年)に再建されたものですが、なんせ巨大な建築物。
使われている瓦の数は約11万枚。屋根の総重量3020トン。瓦だけでも1500トン。
よくもまぁ木材だけで支えているもんだと思っていたら、やはりというか案の定というか、明治時代には梁が重さで歪んでしまい波打つまでになってしまったんだそうです。
明治5年(1872年)頃の大仏殿
見事に屋根歪んでいますね(;´Д`)
そしてよく見たら上層&下層の屋根部分にはつっかい棒が…
明治36年(1903年)から11年にわたり大修理が行われました。
イギリスのSHELTONSTEEL(シェルトン・スチール)社製の鉄骨トラスを輸入し、天井裏に鉄骨トラスを組んで補強したのだそうです。
屋根裏に登ると明治時代に修復された鉄骨トラスが今でも梁を支えているのを見る事が出来るそうなのですが、もちろん通常は屋根裏は非公開。
それにしてもよくもまぁ30年以上も歪んだ梁状態で持ったものだと思います。
広目天像
寛政11年(1799年)の造立。
反対側には多聞天像
持国天と増長天像は何故か頭部だけの造立で終わっているそうです。
多聞天像の前の柱には、盧遮那仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が空いていて、無事くぐり抜けられると「無病息災」ご利益が有る、という柱くぐりがあり、修学旅行生などで賑わっています。
斯く言う私も中学修学旅行の時はくぐったものでしたが、行った時には相当良い歳した某隣大国からの観光客軍団が修学旅行の子供達をそっちのけで盛り上がっている状態でした(;´Д`)
建設当時(奈良天平時代)の大仏殿の模型
創建当初の大仏殿は奥行きは現在の大仏殿とほぼ同じでしたが、横幅は約1.5倍の幅があったと言われています。
鎌倉時代には奈良時代とほぼ同じ大きさで再建されましたが、再度の兵火で大仏殿が焼失した後、ようやく再建が決まった時には奈良時代に柱として使われていたほどの大きさの木材は調達出来なかったため、心棒として建てられた柱の廻りに更に木材を鉄輪でまとめて強化して柱にしたそうです。
木材不足から建設当初の大仏殿の大きさでは到底再建できず、横幅を縮めて建設したんだそうで。
(尤も創建当初の大仏殿も重さですぐに歪みが出てしまい、兵火で焼け落ちるまでは軒を支える柱を40本ほど足していたそうですが)
この模型自体も大正年間に作られたもので、それなりに古いものでした。
盧遮那仏の光背部分
横から1枚
よくよく見ると胴体部分にはあちこち修復した跡が見られます。頭部は江戸時代の再建なので胴体部分と比べると新しい感じ。
盧遮那仏の左横(向かって右側)の如意輪観音菩薩坐像
虚空蔵菩薩像よりも少し古い元文3年(1738年)頃の造立だそうです。
大仏殿を出てからお水取りで有名な二月堂へ行ってみる事にしました。
日々すり減っていく脳細胞の代わりに記録しておく備忘録的なお出掛けetc日記
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夜のライトアップされた仁王像もけっこうな迫力なのでまた見にいらしてくださいね。
今回は鼻の穴通らなかったんだぁ~
たしかに隣国観光客は我先にと周りへの気づかいをしないですよねぇ・・・
by yamatonosuke (2018-05-29 14:52)
夜のライトアップ仁王像も見損ねてしまいましたねぇ(;´∀`)
何処かのサイトでライトアップされた写真を見たのですが、いつもライトアップ仕様なのでしょうか。
鼻の穴は…例え空いていたとしても通らなかったと思います(;´∀`)
中学生の頃は通る事が出来ましたが、大人になってしまった今!&一人旅で出掛けているのでもし抜けなくなったら大変…w
by そらそら (2018-05-29 17:52)
外国の旅行者がやたらと多かったでしょう。
by U3 (2018-06-01 12:17)
柱くぐりを今回されなかったのは、お腹廻りが・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
八角燈籠は創建当時の部分が残っていたんですね( ̄◇ ̄;) 芸術新潮
2002年6月号の特集「大仏開眼1250年記念 東大寺という宇宙」には
「南大門内部には天井を張っておらず、屋根裏まで構造材が全て見通
せる。」云々とキャプションの付いた誌面大の写真が掲載されてるの
ですが、上層部は暗くて「屋根裏」が写ってないんですよヾ(`◇´)ノ
御写真を拝見して、やっと得心できました(^^) 大仏様ですが、頭部
はたしかに新しい感じに写っていますが、胴体部分も江戸時代では?
by middrinn (2018-06-01 13:12)
>>U3様
奈良は半数以上が修学旅行生か海外からの観光客か、というほど多かったかもしれません。
京都は主だったところは圧倒的に隣大国からの旅行者軍団が多かったのですが、最近は若干少なめになってきた?と思ったら奈良の方に沢山おりました(>_<)
(しかも圧倒的にマナー悪し!!)
アングロサクソン系のバックパッカーも結構多めでした。
>>middrinn様
(屮゚Д゚)屮-----┻┻ -3-3!!!!!!
今の大仏殿は三代目ですが、南大門は二代目。
二代目南大門は鎌倉時代に再建されたものですが、同じく鎌倉時代に再建された二代目大仏殿も南大門と同様に天井が無い造りだったそうですよ。
盧遮那仏は頭部(四代目)がまるっと江戸時代の再建で、胴体部分は創建当時の部材も活かして修復されているので部分的に江戸時代みたいです。何しろ鎌倉時代の大仏殿が兵火で焼けてしまってからは資金面問題で再建がなかなか叶わず、100年程野晒し状態で置いておかれた訳ですからね(;´Д`)
by そらそら (2018-06-01 19:52)