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2019年 平成→令和 またぎ旅【教科書でも見たアレがあった法隆寺】 [旅行]

まだ5月だと言うのに何でしょう、この暑さ(>_<)[あせあせ(飛び散る汗)]
北海道でも5月で30度超えになるような熱気が襲った今週末ですが、この暑さはまだあと2日は続きそうな予報が出ている…。
まだ湿度がそれほど酷い時期ではないので夏本番よりはだいぶ過ごし易いのですが、先週日曜日から1週間ずっとお腹の調子がイマイチだったので体調がビミョーに不完全[たらーっ(汗)] 早々に夏バテしそうで怖いです[たらーっ(汗)]
あーー…、また明日から1週間お仕事頑張らねば[たらーっ(汗)][たらーっ(汗)]


法隆寺うろちょろ記の続き。
西院伽藍内には金堂と五重塔の他に大講堂があるのですが、ここが全く写真撮っていなかった事に気付きました(>_<)

かろうじて五重塔の後ろに写っている大講堂[たらーっ(汗)]
法隆寺31.jpg




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大講堂を単独で写さなかったのは、方角的に逆光だったからとか、特に特徴が無い様な建築物だったから、とか(←失礼)だったような気もしますが、1枚くらいは至近距離で撮影した、つもりだったのに全く1枚も無かったので、逆に自分でビックリしましたわ[たらーっ(汗)]

この日は少し風が吹いていたのですが、大講堂の入口付近からギーギーと木が軋む音がずっと聞こえていて、時々何処からかリーンリーンと鈴の音(五重塔の風鐸?)が聞こえていました。
大講堂は正暦元年(990)の再建だそうなので、千年以上も経てば軋み音の1つも聞こえてもおかしくはない気もするのですが、それにしてもこんな派手にギーギー軋む音がする寺院というのは初めてかもしれない(扉が風で動いてギーギー軋んでいたようですが)

はっ、そう言えば神社や仏閣で「降る(雨とかが)、吹く(風とか)、鳴る(雅楽とか)」は歓迎されている印と聞いたけれど、これはちょっとだけ法隆寺に歓迎されていると思っていいですか(*゚∀゚)[ダッシュ(走り出すさま)]


大講堂の内部には大講堂再建時のと同時期に造像された釈迦三尊像が安置されています(講堂内は撮影禁止なので写真無し)
大講堂内では修復用の瓦の寄進も行われていたので、これも何かの記念か、とちょっとだけ張り込んで1枚3000円の紋様平瓦を寄進してきました。


はて、そういえばここの御朱印は何処で戴く事が出来るのだろう?(・ω・)?


聞いてみると、西院伽藍の隣にある聖霊院で受け付けている、とのことだったので聖霊院へ。
法隆寺16.jpg
聖霊院には聖徳太子像を安置した厨子が納められているそうですが、普段は厨子の扉は閉ざされていて非公開です。
開かれるのは太子の命日である3月22日の御会式(御命日法要)の時だとか。

ここでも御朱印戴くのに列が出来ていました(;´∀`)
まぁ、前日の長谷寺で並んだ40分と比べたら、5分程度とささやかな列の並びではありましたが、聖霊院内は実にこじんまりしているので結構混雑している様に思えてしまうのです。


しかしこじんまりして見えるのは手前側の聖霊院部分だけで、その奥側には東室と呼ばれる長い建物(元僧坊)が続いています。

これは西院伽藍の回廊の連子窓越しに撮影した東室
法隆寺15.jpg


拝観前に立ち寄った三経院の後ろ側にも同じ様に「西室」と言われる僧坊があるんですよね。
法隆寺28.jpg
こちら側は三経院の正面側を見た程度で、奥側は殆ど見ていないのですが(;´∀`)


聖霊院で無事に御朱印も戴けたので、お次は宝物殿である大宝蔵院と百済観音堂へ。
法隆寺17.JPG
ここも内部は完全に撮影禁止なので外部の写真だけ(;´∀`)
飛鳥時代や白鳳時代に造像された仏像などが沢山安置されているのですが、見慣れている平安時代や鎌倉時代などに造られた仏像と比較するとだいぶ顔つきや体型などが違う感じです。
やや瓜実顔ですらりと長い体型。そして何と言っても特徴的なアルカイックスマイル。
その飛鳥時代の仏像の特徴を持った百済観音像は思っていたよりも随分大きな立像でした。
そして何やら古めかしい厨子が展示されているな、と思ったら、おぉぉ、これが有名な国宝「玉虫厨子」だったのね。
玉虫厨子.jpeg
(↑モノクロ写真をAIで着色してみました)

かつては玉虫の羽根で彩られた美しい厨子だったそうですが、今は殆どの羽根が取れてしまっているそうです。
とは言え、何処かに少しは残っている筈なんだよね。何処に残っているのかな?としばし目を凝らして探してみたのですが、見当違いの場所を探していたため、玉虫の痕跡は全く見つける事が出来ませんでした[たらーっ(汗)]
(最上部の宮殿(くうでん)の屋根下辺りに少しだけ残っているらしいのですけれど、下層の須弥座部分を一所懸命になって探していたので(;´∀`))


宝物殿を出たところにある無料休憩所で一休み。
法隆寺に到着してから1時間半近くは経っているのですが、拝観出来たのはまだほんの一部です。
何しろ法隆寺の境内は東京ドーム14個分[あせあせ(飛び散る汗)] うーん、法隆寺広過ぎ(>_<)



今度は夢殿へ向かいます。
法隆寺18.jpg

その途中で古い門を通るのですが
法隆寺19.jpg
これも何気に国宝Σ(・ω・/)/
法隆寺20.jpg
日本最古の僧門 奈良時代に造立された東大門

天井部分は比較的シンプルな造り
法隆寺21.jpg

反対側から1枚
法隆寺22.jpg
そう言えば阿吽の仁王像が安置されていた中門は飛鳥時代の造立で、東大門よりも更に古い筈なのですが、あれは僧門じゃないの?
いや、そもそも僧門と普通の寺院にある総門とどう違うの(・ω・)? 僧門で調べても「出家」の意味合いしか出て来ないし。

と悩んで更に調べてみたら
 そう‐もん【僧門】
 〘名〙
 ① 僧籍にあること。僧家。〔張又新‐東林寺碑陰記〕
 ② 寺院の門。奈良時代、寺院の門のうち仏門(中門・南門)以外の門。

更に詳しく言えば

 南都六宗の寺院では四周の築地にあく門のうち,各方面の重要なものを〈大門〉といい,方角を冠して南大門,東大門というように呼び,回廊の正面にあく門を〈中門〉,東西回廊にある門を〈楽門〉といった。奈良時代には南大門と中門を〈仏門〉,その他を〈僧門〉といっている。禅宗寺院では中門にあたるものを三門(山門)といい,五間三戸二重門を正式とし,左右に上層にのぼる山廊をつけ,南大門を〈総門〉と呼び,さらにその外に〈外門〉を設ける。

なのだそうです。
なるほど、納得。南大門と中門は仏門であって、僧門ではないのね。



ほどなく夢殿のある東院伽藍の四脚門に到着しました。
法隆寺23.jpg

ここの手水舎の吐水口は…鳳凰?それとも朱雀(・ω・)?
法隆寺24.jpg
『東』院伽藍という方角を考えれば、東を司る霊鳥 鸞(らん)なのかもしれませんが、デザイン的にデフォルメされているのでいまいちハッキリとわかりません。


で、夢殿
法隆寺25.JPG
法隆寺26.JPG
何処から見ても綺麗な八角円堂です(*´ω`*) 上に乗っている宝珠もゴージャス。


出掛けた時は夢殿本尊である救世観音菩薩立像の特別開帳時期(春期:4/11~5/18)だったのですが、特別開帳時期ということに気付かず、さらっと拝観した程度になってしまいました。

救世観音像は聖徳太子をモデルに造られた立像だと伝えられていますが、何らかの理由で白布でぐるぐる巻きにされ、200年もの間、絶対秘仏として封印されていた過去があります。
封印を解けば天変地異などの神罰で寺が全壊すると信じられ続けていた観音像の封印を200年ぶりに明治17年(1884)に解いたのがアーネスト・フェノロサと岡倉天心

ここら辺の下りはコミックの「天智と天武‐新説・日本書紀‐」のエピソードにも描かれていましたが、そう言えばあのコミックは無料分までの3巻までしか読んでいないや(;´Д`)


夢殿の隣には聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められた絵殿と、舎利殿があるのですが、こちらは外観から覗き見ても暗過ぎて見えず、障子絵の詳細は分かりませんでした。
この『聖徳太子絵伝』は、国宝:障子絵十面 延久元年(1069)秦致貞筆「延久本」と、重要文化財:掛幅四幅 嘉元3年(1305)上野法橋・但馬房筆「嘉元本」の2種類が存在しており、こちらは東京国立博物館の法隆寺宝物館で不定期に展示されているようですが、絵殿の方に納められているのは「延久本」を天明6年(1786)から翌年にかけて吉村周圭充貞によって模写された「天明模本」なのだとか。

「天明模本」も一般公開される時があるんでしょうかね。
法隆寺には大宝蔵院の他に春季と秋季のみ秘宝公開の特別展を行う大宝蔵殿という場所もあるのですが、ここで特別展をやっていたか既に記憶が曖昧…(;´∀`)
(でも法隆寺の公式サイトでは大宝蔵殿のリンクが外されているので、現在は休館している可能性も大ですが)



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middrinn

救世観音像の封印を解いたのは自分とフェノロサ
と加納鉄哉、と天心は記してるようですよ(^_^;)
by middrinn (2019-05-27 17:02) 

そらそら

ほほぅ( *´ー`)y─┛~oΟ
コミックには天心とフェノロサだけの登場でしたが、真実はどうだったのだろうか、と更にちょっとだけ調べてみました。

和辻哲郎著の『古寺巡礼』改訂版では、封印を解いた時に居合わせたのはフェノロサと助手の九鬼隆一氏との記載があったようですが、これは和辻氏の間違いで、実際に封印を解いた時にいたのは確かにフェノロサと岡倉天心、加納鉄哉の3人だった様ですね。
救世観音像のぐるぐる巻きの布をほどいたのはフェノロサと加納鉄哉の2人だったようです。
by そらそら (2019-05-27 21:20) 

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