シーボルトは研究者としては立派だが人としては如何かと思う [博物館]
中央ホールでシドッチ神父の企画展を見た後は隣の企画展示室で開催されている「日本の自然を世界に開いたシーボルト」展へ。
今年2016年はシーボルト没後150年に当たっており、先日までは江戸東京博物館でも「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」展が開催されていました。
が、そっちは結局行き損ねたのでせめてかはくの企画展だけでもと見に行ったのでした。
(えどはくの方は民族学的な資料、かはくの方は植物や動物など日本の生物学的資料と、企画展のコンセプトはそれぞれ違うのですが)
多少にょろにょろ系の写真が入るので記事はたたんでおきます。
苦手な方はご注意を。
シーボルト、と言えば長崎の鳴滝に医学を教える為の「鳴滝塾」を開いたオランダ人、と子供の頃習ったような記憶があるのですが、実際は生粋のドイツ人。幕府が国外持ち出しを禁じていた日本地図などをこっそり持ち出そうとしていたのがバレて国外追放になった「シーボルト事件」の方が印象に残っています。
シーボルト来日当時の日本は鎖国状態にあり、オランダ人だけが出島に上陸する事を許されていたので、ドイツ人ではなくオランダ人と偽って入国したんだそうで。
でも個人的には医学者というよりも博物学者での印象が強いのですが、今回の企画展はまさにその博物学系。
日本は島国という地形の為か、ヨーロッパ諸国と比べて動植物の固有種の数が非常に多く、シーボルトは日本滞在期間中に採取した動植物の標本を大量に本国に送っています。
送られた標本や川原慶賀などの日本人絵師が描いた下絵を元に「日本動物誌 Fauna Japonica」「日本植物誌 Flora Japonica」として30年以上かけて分冊化で発行されました。
日本植物誌 Flora Japonica
当時はカラー印刷技術が発達していなかったため、手で1枚1枚彩色がされています。
シーボルト直筆の手紙
昨年発見されたばかりの直筆の書簡。
シーボルトと言えば、日本人女性の「お滝さん」と言う女性と所帯を持ち、アジサイの学名にタキの名前を取った「オタクサ」と付けたのは有名ですね。
シーボルトが採取した(かもしれない)アジサイ標本。
動植物標本はシーボルトが採取した物も多いのですが、シーボルトが治療費を取らないので治療費代わりに患者たちが採取した動植物を差し入れたりする事も結構あったようです。
下は「日本動物誌 Fauna Japonica」からオオサンショウウオ。
見開きページを目一杯使って体をくねらせるオオサンショウウオが描かれていて大迫力でした。
パネルには何年かは書かれていませんでしたが、生きた個体が本国へ送られ、その内の1匹は1881年まで生きていたとの事。
今のヨーロッパには小さいタイプのサンショウウオしか生息していないそうです。世界最大級の両生類でもあるオオサンショウウオを初めて見た人たちの驚きが伝わってきそうです。
イソガニのパラレクトタイプ標本
実際にシーボルトが採取した(らしい)イソガニの標本。
ライデン自然史博物館から国立科学博物館へ里帰り交換されたパラレクトタイプ標本。
標本化されてから200年弱経過しているものの、今でも体表の模様が残されている状態の良い標本。
シーボルトミミズ
これはシーボルトが採取した標本ではないのですが。
学名にシーボルトの名前が付けられた動植物はそれなりにありますが、和名でシーボルトの名前が付いたものはそれほどないらしく、「シーボルト」で検索をかけようとすると「シーボルトミミズ」も予測単語で上がってきます(;´∀`)
説明文に「角度によって紫色に輝き」とあり、動画展示もあったのですが…うーん?紫には見えないんだけど??
自宅のPCで「シーボルトミミズ」で画像検索してみたら…うわぁ!!紫と言うか青!!
ミミズは平気なのですが、こんなに青いデカいミミズがわさわさしているのを見たら流石にちょっと引きそうです
そして「引く」と言えばシーボルト。
国外追放になってから約30年後。シーボルトは再び日本の土を踏み、かつての妻「タキ」と娘「イネ」 そしてイネの娘「タダ(タカコ)」に会います。この時シーボルトは既に63才。
タキと別れてから10年後にシーボルトはドイツ人女性と再婚しており、長男を伴っての再来日になりました。
タキの方も生活面で女性1人で子供を育てて行くには何かと世間的に厳しい事もあってか2年後には再婚しており、シーボルト再来日の際にはその再婚した相手も亡くなっていたのですが、かつての伴侶とは言え今は別の人の伴侶。流石に一緒に住む訳にも行かず、かといって女手が無くては日本での生活も大変だろうと女中シオを雇ってシーボルトの身の回りの世話をしてもらったそうです。
しかしシーボルト、何とこの女中に手を出して妊娠させてしまいます(この時シーボルト65才)
かつての妻と娘を激しく失望させた状態でシーボルトは母国へ戻り、それから4年後には亡くなる訳ですが、異母弟のアレクサンダーと後日来日していた次男ハインリヒはそのまま日本に残り、異母姉のイネを経済的に支えたそうです。
今年2016年はシーボルト没後150年に当たっており、先日までは江戸東京博物館でも「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」展が開催されていました。
が、そっちは結局行き損ねたのでせめてかはくの企画展だけでもと見に行ったのでした。
(えどはくの方は民族学的な資料、かはくの方は植物や動物など日本の生物学的資料と、企画展のコンセプトはそれぞれ違うのですが)
多少にょろにょろ系の写真が入るので記事はたたんでおきます。
苦手な方はご注意を。
シーボルト、と言えば長崎の鳴滝に医学を教える為の「鳴滝塾」を開いたオランダ人、と子供の頃習ったような記憶があるのですが、実際は生粋のドイツ人。幕府が国外持ち出しを禁じていた日本地図などをこっそり持ち出そうとしていたのがバレて国外追放になった「シーボルト事件」の方が印象に残っています。
シーボルト来日当時の日本は鎖国状態にあり、オランダ人だけが出島に上陸する事を許されていたので、ドイツ人ではなくオランダ人と偽って入国したんだそうで。
でも個人的には医学者というよりも博物学者での印象が強いのですが、今回の企画展はまさにその博物学系。
日本は島国という地形の為か、ヨーロッパ諸国と比べて動植物の固有種の数が非常に多く、シーボルトは日本滞在期間中に採取した動植物の標本を大量に本国に送っています。
送られた標本や川原慶賀などの日本人絵師が描いた下絵を元に「日本動物誌 Fauna Japonica」「日本植物誌 Flora Japonica」として30年以上かけて分冊化で発行されました。
日本植物誌 Flora Japonica
当時はカラー印刷技術が発達していなかったため、手で1枚1枚彩色がされています。
シーボルト直筆の手紙
昨年発見されたばかりの直筆の書簡。
シーボルトと言えば、日本人女性の「お滝さん」と言う女性と所帯を持ち、アジサイの学名にタキの名前を取った「オタクサ」と付けたのは有名ですね。
シーボルトが採取した(かもしれない)アジサイ標本。
動植物標本はシーボルトが採取した物も多いのですが、シーボルトが治療費を取らないので治療費代わりに患者たちが採取した動植物を差し入れたりする事も結構あったようです。
下は「日本動物誌 Fauna Japonica」からオオサンショウウオ。
見開きページを目一杯使って体をくねらせるオオサンショウウオが描かれていて大迫力でした。
パネルには何年かは書かれていませんでしたが、生きた個体が本国へ送られ、その内の1匹は1881年まで生きていたとの事。
今のヨーロッパには小さいタイプのサンショウウオしか生息していないそうです。世界最大級の両生類でもあるオオサンショウウオを初めて見た人たちの驚きが伝わってきそうです。
イソガニのパラレクトタイプ標本
実際にシーボルトが採取した(らしい)イソガニの標本。
ライデン自然史博物館から国立科学博物館へ里帰り交換されたパラレクトタイプ標本。
標本化されてから200年弱経過しているものの、今でも体表の模様が残されている状態の良い標本。
シーボルトミミズ
これはシーボルトが採取した標本ではないのですが。
学名にシーボルトの名前が付けられた動植物はそれなりにありますが、和名でシーボルトの名前が付いたものはそれほどないらしく、「シーボルト」で検索をかけようとすると「シーボルトミミズ」も予測単語で上がってきます(;´∀`)
説明文に「角度によって紫色に輝き」とあり、動画展示もあったのですが…うーん?紫には見えないんだけど??
自宅のPCで「シーボルトミミズ」で画像検索してみたら…うわぁ!!紫と言うか青!!
ミミズは平気なのですが、こんなに青いデカいミミズがわさわさしているのを見たら流石にちょっと引きそうです
そして「引く」と言えばシーボルト。
国外追放になってから約30年後。シーボルトは再び日本の土を踏み、かつての妻「タキ」と娘「イネ」 そしてイネの娘「タダ(タカコ)」に会います。この時シーボルトは既に63才。
タキと別れてから10年後にシーボルトはドイツ人女性と再婚しており、長男を伴っての再来日になりました。
タキの方も生活面で女性1人で子供を育てて行くには何かと世間的に厳しい事もあってか2年後には再婚しており、シーボルト再来日の際にはその再婚した相手も亡くなっていたのですが、かつての伴侶とは言え今は別の人の伴侶。流石に一緒に住む訳にも行かず、かといって女手が無くては日本での生活も大変だろうと女中シオを雇ってシーボルトの身の回りの世話をしてもらったそうです。
しかしシーボルト、何とこの女中に手を出して妊娠させてしまいます(この時シーボルト65才)
かつての妻と娘を激しく失望させた状態でシーボルトは母国へ戻り、それから4年後には亡くなる訳ですが、異母弟のアレクサンダーと後日来日していた次男ハインリヒはそのまま日本に残り、異母姉のイネを経済的に支えたそうです。
日々すり減っていく脳細胞の代わりに記録しておく備忘録的なお出掛けetc日記
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鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医
となったドイツ人シーボルト、オランダ人で通しました。
・国家事業の捕鯨船乗組員を捕虜にしていた日本は、
・解放の交渉に来た諸外国の海軍船長たちによって
・江戸「大奥」も出島も「芸者ハウスを営む国」として有名になっ
ていました。
シーボルトは国禁となる日本地図を持ち帰ったばかりでなく
1826年カピタンが北斎に、
日本人男女の一生を描いた絵2巻を150金で依頼の春画を
受領。
シーボルトが引受けたオランダ製紙の二十八点の作品は、
後にシーボルト・コレクションとしてライデン国立民族学
博物館が所蔵。
出島外に『鳴滝塾』を開設し西洋医学(蘭学)教育を行った
目的は、第一に「自在に芸者ハウス出入り可能」であった為、
と。
日本人丸山町遊女「お瀧」を愛人にして【情報入手】や【出
入り可能となる場ができる】ため。
・現代まで、
・外国の要人は
・【日本人女性を妻にするとスパイ任務は成功・出世コース】
常套策。
シーボルト日本追放でドイツ人と結婚、
再来日して瀧がつけた女中に手を出して妊娠させ、瀧もイネも
大層失望したとのこと。
東方見聞録から始まった「諸外国戦争屋の夢:黄金の国ジャパン』
日本の琉球〜北海道宗谷まで海底探査したペリーと同じく
シーボルトも日本の文化を探索・研究。
両者とも、日本戦略のための遠征_と受け止めるのが自然です。
今日がその結果です。
by Shion (2017-07-25 01:00)
シーボルトが日本から持ち帰り、ライデン国立民族学博物館が所蔵していた絵画6枚が昨年葛飾北斎の肉筆画である事が判って話題になりましたね。
商館長(カピタン)が依頼した春画は同じものをシーボルトも注文し
、しかも「自分はカピタンほど裕福ではないから半分の75金で売ってくれ、半額で無理なら半額分だけ売ってくれ」と無茶を言い、怒った北斎が作品を売らずに引き上げた、なんて話もあったようです。
他にも北斎はシーボルト事件などに関与した疑いで幕府から取り調べを受けたりして、シーボルトのお陰で色々大変な目にあった模様。
瀧さんとの結婚生活は紫陽花にお瀧さんの名前を取って「オタクサ」と学名を付けたくらいですから、少なからず愛情は持っていたと思いたいのですが、如何せん、その後の顛末が酷過ぎて…;
by そらそら (2017-07-27 23:12)