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2018年晩秋 京都紅葉旅:三度目の三十三間堂 [旅行]

早くも3月(*´ω`*)
今年の冬は(関東圏は)雪も少なくて暖冬だったし、乾燥気味だったのを除けば概ね過ごし易かったと思うのですが、それでもやはり春が近づくと気分は上昇。
そしてお馴染みの「そうだ、京都行こう」のCMが流れ出すと、また京都へ行きたくてうずうず(;´∀`)[あせあせ(飛び散る汗)]してきてしまうのですが、今年の京都花見旅行は無し(たまには両親に行って来てもらおうかと(*´ω`*))
代わりに私はGWの10連休中に奈良へ出掛ける予定です。



さて長々引っ張って来た昨年秋の京都旅行うろちょろ記最終回。

京都国立博物館内のカフェでお昼ご飯を食べ終わった時点で時刻は14時半。
帰りの新幹線の時間は17時5分なので、京都駅に戻るにはまだだいぶ時間があります。
かといってちょっと離れた場所に行くには時間が厳しい。
博物館の近場で行けるところ…、豊国神社か、三十三間堂か、智積院か、養源院か。
行った事が無いところなら智積院か豊国神社ですが、頭痛封じのお守りを戴きたかったので三十三間堂へ行く事にしました。
三十三間堂は今までに2回拝観した事がありますが、最後に拝観したのは確かもう10年くらい前だし(;´∀`)

三十三間堂1.jpg

拝観者を入れないで撮影したかったのに、隣大国からの家族連れがしばーーーらく動かなかったので仕方なしに撮影(何故かドヤ顔でこっち見る爺様のおまけ付き[たらーっ(汗)]



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三十三間堂、正式な名称は「蓮華王院 三十三間堂」というそうです。
三十三間堂2.jpg

ここにはもともと後白河上皇の離宮「法住寺殿」があり、長寛2年(1165年)にその一角に建てられたのが「蓮華王院」
創建当時の蓮華王院は本堂(後の三十三間堂)の他に五重塔もある本格的な寺院だたそうですが、建長元年(1249年)に火事で全て焼失してしまいます。
その後本堂だけが文永3年(1266年)に再建されましたが、これが今の三十三間堂。


「蓮華王院」という名称の由来は
 1.三十三間堂のご本尊が「千手観音」で、千手観音の別称が「蓮花王」であるから
 2.三十三間堂を建立した後白河上皇の前世が熊野の蓮花坊であると言われたことから
という2つの由来があるのですが、面白いのが2の由来。

ある日、頭痛に悩まされていた後白河上皇の夢に僧が現れ
「貴殿の前世は熊野の蓮花坊という僧侶だが、功徳を積んだので今世では天皇として生まれ変わった。前世の蓮花坊の髑髏は岩田川の底に沈んでいて、目穴から柳が生えているのだが、風が吹くとその柳が揺れるので頭が痛むのだ」と告げた。
そこで上皇は岩田川(現在の富田川)を探させてみると、まさにお告げ通りに水底に沈み、目穴部分から柳が生えている髑髏が見つかったので、髑髏は千手観音の胎内に納め、柳は梁に使ったところ、たちまち上皇の頭痛は治まったという。

そんな訳で三十三間堂は別名「頭痛山平癒寺」としても知られ、現代でも毎年1月の成人の日には「楊柳のお加持」と言われる行事(「楊枝(やなぎ)」で観音さまに祈願した法水を参拝者に注いで、諸病、特に頭痛を除く)が執り行われ、頭痛封じのお守りを授与していただけるのです。
偏頭痛持ちの私には有り難さ倍増のお寺という訳ですね(*´ω`*)


ではいざ内部へ。
三十三間堂3.jpg

出入口部分が新しく増設されていました。
三十三間堂4.jpg
以前は確か袋に靴を入れ、堂内はビニール製スリッパ履いて廻ったと思うのですが、今は出入口の靴箱に靴を預け、館内は絨毯敷きになったのでそのまま廻れる様になっています。
靴を持ち歩く必要が無くなったのは有り難いですが、冬場は足が相当冷えそうですね[たらーっ(汗)]



堂内は一切撮影禁止なので、例によって海外サイトなどからの拾い物画像で。
三十三間堂8.jpg
三十三間堂9.jpg
三十三間堂、と言えばこの千一躯の千手観音立像が並ぶ圧巻の光景ですよね。
拝観ルートも以前のルートとは少しだけ違っていて、まずこの観音立像が立ち並ぶエリアから拝観するようになっていました。


三十三間堂という名称は、堂の長さが三十三間だからなのかと思っていましたが、本堂内陣(身舎(もや))の柱間が33あるからだそうです(33は観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数)
三十三間堂11.jpg

因みに本堂の桁行(けたゆき)の長さは約121mだそうなので、間で考えれば六十六間堂(一間は181.8cm)ということに…(;´∀`)
この長い本堂の西側では毎年「楊枝のお加持」と同日に「三十三間堂大的全国大会」が行われ、本堂西側に作られた射程60mの特設射場では新成人となった若者達が射手となり弓を引きます。
これをニュースなどでは「通し矢」として報道されることもありますが、射程60mだと本堂の半分しかないので正確には「通し矢」ではないですね。

江戸時代には本堂西側軒下の端から端まで矢を何本到達させるか、文字通りの「通し矢」が行われており、最高記録は江戸時代、18歳の少年「和佐大八郎」による総矢13,053本、通し矢8,133本だそうです。
三十三間堂-通し矢.jpg
…聞いているだけで手がつりそう[あせあせ(飛び散る汗)](;´∀`)


堂内は中央にご本尊の千手観音坐像が鎮座しており、その左右に500体ずつ千手観音立像が10段50列に並んでいます。
三十三間堂10.jpg
更に千体仏の前には二十八部衆像28体が一列に並び、更に左右端には風神雷神像が並ぶゴージャスさ(*´ω`*)


ところで千手観音坐像の左右に500体ずつならば、観音立像は全部で1000体なのでは?
坐像の千手観音を含めて1001体ということなのかな…?と思っていたのですが、実は千手観音立像の最後の1体は1000体の千手観音立像が立ち並ぶ段の反対側、そこにポツンと1体だけ立っています。

千手観音立像には全て通し番号が付けられており、ご本尊の裏手に1体だけ安置されている千手観音立像には1001號像と一番最後の番号が付けられているのですが、この1001號像の観音様。日本中を一番行脚した千手観音像なのです。

1001体の仏像を含め、全ての仏像を保持するには大変な金額がかかるかと思うのですが、明治時代に起こった廃仏毀釈の煽りで三十三間堂も例外無く被害を受けてしまいます。
一時は千手観音立像を薪として売却する案([exclamation×2])も挙がったそうなのですが、当時の僧侶達が1001號像の観音立像を箱に安置した状態で背負って行脚し、寄進を募る事でどうにか現代まで存続させたのだそうです。


千手観音立像を除く仏像および本堂は既に国宝指定でしたが、千手観音立像1001体は何れも重要文化財止まりでした。
昭和48年(1973)年から始まった観音立像1001体の修繕は、総事業費923,208,409円(うち約60%は文化庁が負担)をかけて平成29年(2017年)12月にようやく終わり、昨年3月には晴れて1001体全てが一括して国宝に指定。
一度に国宝が1001も増えた訳です。先人達から続いた苦労の賜物ですね。


通常時は千手観音立像1001体の内、奈良国立博物館、京都国立博物館に各1体ずつ、そして東京国立博物館に3体の計5体が寄託されているため、三十三間堂内で拝観する事ができる千手観音立像は全部で996体なのですが、出掛けた時(11/17)にはちょうど寄託されていた5体の千手観音像が11月待末までの期間限定で里帰りしていた時期。
1001体の「木造千手観音立像」を1.2メートルの高さから拝観できる「秋雲壇(しゅううんだん)」が特別に設置されていました(*´ω`*)
何でも1001体が一堂に会するの平成4年(1992年)の法要以来、実に26年ぶりだったんだそうです。
この事は全く知らずに三十三間堂へ拝観に行った訳だったのですが、非常にラッキーなことだったんですね( ゚Д゚)


いつもよりずっと目線の位置が高い「秋雲壇(しゅううんだん)」からの観音菩薩立像群…も良かったのですが、梁に掲げてある沢山の絵馬や扁額もよく見えるのでそっちも気になります。
堂内が薄暗いのと、長年の間に煤けてしまっているため、何と書いてあるのか判らなくなっている絵馬も多いのですが、多くは通し矢の成功を祝って奉納されたもののようです。
三十三間堂古写真.jpg
三十三間堂12.jpg
堂内の絵馬の写真はなかなか見つけられなかったので、古絵はがきから。

明治33年(1900年)頃の三十三間堂を描いた銅版画には本堂の外にも沢山の絵馬や扁額が掛かっていた様子が描かれています。
日文研-三十三間堂1900年.jpg


「秋雲壇(しゅううんだん)」近くに実物の弓矢が貼付けられた額がかかっていました。
(上の銅版画では堂内ではなく本堂の外に飾られているのが確認出来ます)
三十三間堂弓.jpg
きっと通し矢に成功した人が納めたんだろうな、と思っていたのですが、この弓矢を奉納したのは布団の西川産業の9代目西川甚五郎とのこと。

何でお布団屋さんが弓矢…?と謎に思っていたのですが、西川は5代目から弓矢販売を手掛けており、9代目西川甚五郎は徳川家の御用弓師だったのだそうです。
この弓矢額は9代目西川甚五郎が仲間の弓仲間32名と共に天保15年(1844年)に奉納したもので、長さ2間半(約4.5m)、幅4尺(約1.2m)で、重さは30貫(約112kg)という大きなものです。
今回は「秋雲壇(しゅううんだん)」に昇ってみたので気付く事が出来ましたが、普段なら目前の観音立像に目を奪われて気付かなかったかも[たらーっ(汗)]


しかし本堂外に今でも残る通し矢の跡や、創建時に本堂を彩っていた極彩色が残る鏡座跡の装飾文様などは気付かずに見損ねてしまいました(;´Д`)
三十三間堂は何度訪ねても飽きる事は無いので、また機会を見つけてのんびりと拝観したいものです。

本堂以外も少しだけ見てきました。
裏手にひっそりと佇む西門
三十三間堂5.JPG
三十三間堂6.jpg
開いている時もあるようですが、行った時は閉められていました。

西側から本堂を1枚
三十三間堂7.jpg
「通し矢」や「三十三間堂大的全国大会」はこちら側で行われていたんでしょうね(*´ω`*)


帰りのバスは京都駅前の塩小路付近で混雑する事が多いので、余裕を持って15時半前に三十三間堂を出たのですが、流石にちょっと早過ぎたからか道路もそれほど混んではおらず。
新幹線の時間まで小一時間ほどあったので、ならば、と人気の和カフェ(辻利とか)でお茶でもしていこうと思ったのですが、何処も大混雑で逆にこっちは1時間あっても時間足りなさそう[たらーっ(汗)]
結局京都駅でお土産散策して時間を潰す羽目になりました(;´∀`)  京都はいつ行っても混み過ぎでしょ[あせあせ(飛び散る汗)]




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